2018年5月4日、世界文化遺産(せかいぶんかいさん、World Cultural Heritage)への登録を目指していた「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産」(ながさきとあまくさちほうのせんぷくきりしたんかんれんしさん)について、ユネスコ国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん、 United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization, UNESCO)の諮問機関であるイコモス(国際記念物遺跡会議、ICOMOS/ International Council on Monuments and Sites)の正式な勧告を受け2018年6月24日からバーレーン(中東西アジア)で開催される世界遺産委員会で正式に世界文化遺産に登録される見通しとなったという喜ばしいニュースが流れました。
目次 Contents
潜伏キリシタンの背景
今回、世界文化遺産登録の正式勧告を受けた「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産」(Hidden Christian Sites in the Nagasaki Region)は、長崎県と熊本県の2県6市2町(長崎県長崎市・佐世保市・平戸市・五島市・南島原市・小値賀町・新上五島町、熊本県天草市)にまたがる12の資産で構成されています。
私も含め、多くの人は、正式勧告のニュースで、潜伏キリシタン関連資産が世界文化遺産登録を目指していたことを知ったと思いますが、実は平成19年1月(2007年1月)に「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」がユネスコの世界遺産暫定一覧表に登録されたとのことで、10年以上の軌跡を経て今回の正式勧告となったそうです。
<キリスト教宣教の幕開け>
潜伏キリシタンの歴史は、1549年(天文18年)8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町にたどり着いたフランシスコ・ザビエル(フランスとの国境に近い北スペインのナバラ王国出身カトリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。バスク人。Francisco de Xavier)が、翌年の1550年に現在の長崎県平戸市(ながさきけんひらどし)に三度もキリスト教の布教に訪れたことから始まります。
ちなみに、1931年(昭和6年)4月に現在の教会堂が建てられた長崎県平戸市鏡川町にある平戸ザビエル記念教会(ひらどザビエルきねんきょうかい)は、潜伏キリシタン関連資産ではありません。
その後、ザビエルに続いて宣教師が次々と来日し、キリスト教の普及に努めました。
宣教師たちは、キリスト教を広めるために、まず領主(大名)に教えを説き、仏教からキリスト教に改宗させ、その上で、その家臣や領民たちに布教活動をする許可を得て、キリスト教を布教していきました。
この大名たちは、キリシタン大名と呼ばれ、九州地方での主なキリシタン大名としては、大村純忠(おおむらすみただ)、のちに原城を築いた有馬晴信(ありまはるのぶ)、大友宗麟(おおともそうりん)などが有名です。
原城跡(はらじょうあと)は後の1637年に起こった「島原・天草一揆(しまばらあまくさいっき)」の主戦場となった城跡であり、潜伏キリシタン関連資産の一つです。
大村純忠は長崎に南蛮貿易港を開港し、キリスト教が広まるとともに教会が立ち並ぶようになった長崎は、「小ローマ」とも呼ばれていたそうです。
<キリスト教弾圧の始まり>
長崎を皮切りに、九州、山口、及び畿内地方(現在の京都府の一部、奈良県、大阪府、兵庫県の一部)でキリスト教の宣教が進む中で、日本を統一した豊臣秀吉は、織田信長と同じく、もともとキリスト教には寛容だったのですが、キリシタン大名と宣教師の結びつきが強くなり、領地の譲渡など、自身にとって都合の悪い行動が多く起きてきたため、1587年に博多(福岡)で「伴天連追放令ばてれんついほうれい」を発令しました。
バテレン(伴天連)とはポルトガル語での神父を意味する言葉で、主にはキリスト教宣教師に国外退去を命じたものでした。
しかしながら、秀吉は南蛮貿易を捨てる事が出来なく、個人で信じるのは構わないというわりと緩めの禁教令でした。
<潜伏キリシタン歴史の始まり>
1603年に江戸幕府が開かれ政権は徳川家に移ります。
豊臣家を完全に倒し政権の完全掌握を目指そうという大阪の陣(1614年)を控えていた徳川幕府は、キリスト教勢力が豊臣方につくことを恐れ、1612年にキリスト教信仰禁止令を発令し、全国的にキリスト教信仰禁止を布告しました。
宣教師たちはマカオやマニラなどに追放され、国内のキリシタン大名やその家臣たちは棄教(ききょう)し、多くの教会は破壊されました。
そういった状況の中でも、国内に潜伏したり、再度来日してキリシタン指導を続ける宣教師は後を絶たなかったようです。
キリスト教のかつての宣教拠点であり、その民衆のほとんどがキリシタンであった長崎市では、一部を除いては信仰規制はなかったのですが、1626年に長崎奉行に着任した水野守信(みずのもりのぶ)、その後1629年に着任した竹中重義(たけなかしげよし)が住民に対して、残忍な拷問を行い禁教を徹底していきます。
その結果、1637年に「島原・天草一揆(しまばらあまくさいっき)」が起こります。
島原地方の有馬領に土着し、領民たちとともに、キリシタン信仰を続けていたキリシタン武士たち、有馬家旧家臣たちと、かつて天草地方を領有していた小西行長の旧家臣たちに率いられ、キリスト教を密かに信仰し続けていた島原・天草地方の百姓たち約2万数千人が、原城跡に立てこもり、最終的には江戸幕府にほぼ全員殺害され鎮圧されました。
江戸幕府は、この島原・天草一揆によって、更にキリスト教に対して大いなる脅威を感じ1639年に南蛮船の来航を禁止し、それから200年以上続く鎖国が始まりました。
そのような厳しい情勢の中で、島原・天草地方では、キリシタンを信仰する人々は、潜伏キリシタンとして、神父がいない中でも自分たちで洗礼を行うなどの、独自の信仰形態を確立していったのです。
<潜伏キリシタンの離島への拡大から変容そして終焉へ>
潜伏キリシタン達は、その後比較的安定して、18世紀を通じて信仰を継続していきました。
18世紀の終盤には、潜伏キリシタンの集落のあった西彼杵半島(にしそのぎはんとう)西岸の大村藩領の外海(そとめ)地域では、作物収穫量が少ないにも関わらず、人口が増加していました。
その状況を受けて、1797年に、人口が少なく耕作民を求めていた五島藩が大村藩と協定を結び、外海地域からの開拓移民を募る政策を開始しました。
その開拓移民の中に多くの潜伏キリシタン達が含まれており、五島列島に潜伏キリシタンの集落を形成していったのです。
やがて、1854年の日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)締結により、日本は約2世紀ぶりに開国し、それに伴い、パリ外国宣教会フューレ神父が、1863年1月22日に来崎し、2月14日南山手の外国人に居留地に隣接した土地を入手しました。
そして、その後来日した同宣教会プティジャン神父の指導の下に、大浦天主堂(1953年国宝指定、潜伏キリシタン関連資産)が1864年に完成します。
その翌年1865年2月から公開が始まり、その約一か月後(1865年3月17日)に浦上の隠れキリシタン達が現れ、信仰告白してキリシタンであると名乗りをあげたのです。
これが世界宗教史上の奇跡と呼ばれる「信徒発見」です。鎖国の歴史に伴い、約2世紀の間、独自に信仰を続けていた潜伏キリシタンは、同じく約2世紀の時を経て、本者の宣教師と出会いました。
この出会いは、潜伏キリシタン達にとって、カトリックへの復帰、それまで続けてきた信仰形態の継続、神道や仏教などへの転宗などの幾つもの選択肢の中から、自分たちの方向性を見出し行くという新たな局面の始まりでした。
そして、最後の流れとして、日本最後のキリシタン弾圧事件と言われる「浦上四番崩れ」が1867年7月に起きます。
既に1790年に浦上一番崩れ、1842年に浦上二番崩れ、56年には浦上三番崩れと、キリシタンの発覚、検挙事件がありましたが、開国後に起こったのが、この浦上四番崩れです。浦上の信徒約3400人が流罪となり拷問され、棄教を迫られたというものでした。
当時、岩倉具視を全権大使とする岩倉使節団は、この事件について諸外国から厳しく追及され、政府に打電し、1873年(明治6年)2月に、ついにキリスト教禁教が廃止されます。
この後、多くの潜伏キリシタンは、カトリックに復帰し、それぞれの集落に教会を建て始めました。
これは、2世紀以上に及ぶ禁教時代に独自に形成され守られてきた潜伏キリシタン信仰の終焉ともみなされています。
潜伏キリシタン関連資産の概要
今回、世界文化遺産への登録について正式勧告を受けた、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産」は長崎県長崎市・佐世保市・平戸市・五島市・南島原市・小値賀町・新上五島町、熊本県天草市の2県6市2町にまたがる12の資産で形成されています。
世界遺産登録に向けての第一歩としては、前述の通り、平成19年1月に「長崎教会群とキリスト教関連遺産」としてユネスコの世界遺産暫定一覧表に登録されたわけですが、平成24年6月には構成資産を、長崎県の12資産と熊本県の1資産、計13資産とすることを決定し、推進書原案を文化庁に提出しました。
その後、文化審議会の指摘事項に対応するなどの段階を経て、平成27年1月に日本における「長崎の教会群」の推薦が正式に決定し、推薦書がユネスコへ提出されました。
同年9月から10月にかけてユネスコの諮問機関であるイコモスによる現地調査が行われ、翌年平成28年1月のイコモスからの中間報告として、禁教期に焦点をあてるべきという意見、指摘を受け、現在の12資産となりました。
前述の「潜伏キリシタンの背景」のように禁教の歴史をたどっていくと、このように海を越えて12か所をまたがり資産が構成されているのが良く分かります。
①島城跡(はらじょうあと):禁教初期の「島原・天草一揆」の舞台となった城跡です。
②春日集落(かすがしゅうらく)と安満岳(やすまんだけ):平戸の集落では、キリスト教が伝わる以前からも山岳や島を崇敬する自然崇拝思想があり、その後キリシタンの殉教地を聖地とし、自らの形で信仰を続けた潜伏キリシタンの集落です。
潜伏キリシタンが切り拓いた棚田の景観が、対岸の生月島とともに「平戸島の重要文化的景観」の名称で文化財保護法に基づく重要文化的景観として選定されています。
③中江ノ島(なかえのしま):春日集落と安満岳と同様に平戸の聖地と集落です。
春日集落の潜伏キリシタンは、禁教初期にキリシタンの処刑をが行われたこの地を殉教地として崇敬し、洗礼のための聖水採取の場としました。
解禁後もカトリックに復帰することなく自らの信仰を継続したそうです。
④天草の埼津集落(あまくさのさきつしゅうらく):アワビの貝殻の内側の模様を聖母マリアに見たてるなど、漁村特有の信仰を続けた潜伏キリシタンの集落です。
文化財保護法に基づき「天草市﨑津・今富の文化的景観」の名称で重要文化的景観として選定されています。
⑤外海の出津集落(そとみのしつしゅうらく):潜伏キリシタンが、聖画像を拝み、教理書や教会暦をよりどころとして信仰を続けた集落です。
この地域に含まれる出津教会(しつきょうかい)は重要文化財に指定されています。
⑥外海の大野集落(そとみのおのしゅうらく):潜伏キリシタンが表向きは仏教徒となり、また神社の氏子となり、神社に自分たちの信仰対象を祀り、オラショという祈りを唱えるなどして自らの信仰を続けた集落です。
⑦黒島の集落(くろしまのしゅうらく):19世紀半ばに潜伏キリシタンが移住した集落です。
仏教寺院に所属しつつも、信仰を黙認され、ひそかに「マリア観音像」に祈りを捧げるなど自身の組織的な信仰を続けました。
⑧野崎島の集落跡(のざきじまのしゅうらくあと):19世紀以降に潜伏キリシタンが移住し、表向き海上交通の守り神である沖ノ神嶋神社の氏子を装いながら信仰を続けました。
⑨頭ケ島の集落(かしらがしまのしゅうらく):19世紀半ばに潜伏キリシタンが仏教徒の開拓指導者のもと無人島であり、病人の療養地であった頭ケ島に移住し、密かに信仰を続けました。
⑩久賀島の集落(ひさがじまのしゅうらく):五島藩の開拓政策に伴い、潜伏キリシタンが移住した集落です。
五島市最古の教会建築であり、信徒たちの熱意により、二度の解体の危機を免れた旧五輪教会堂(きゅうごりんきょうかいどう)は、現存する初期の木造教会の代表作として1999年に重要文化財として指定されています。
⑪奈留島の江上集落(なるしまのえがみしゅうらく):禁教時に外海から移住した潜伏キリシタンが奈留島内の既存の集落から海に近い谷間にわずかに開けた平地に移住し信仰を続けました。解禁後に、湧水があり防風に優れた場所に建てた江上天主堂は、潜伏キリシタンの風土的特徴とカトリック教会堂の西洋的特徴が融合した代表例とされています。
⑫大村天主堂(おおむらてんしゅどう):日本の開国の後、フランスの宣教師が来日して1864年に建てた教会堂であり、約2世紀ぶりに潜伏キリシタンが宣教師と出会い信仰告白をしたという、世界宗教史上の奇跡「信徒発見」の場です。1953年に国宝に指定されています。
これらの12資産すべてを訪れようとすると、数日でも周りきれなさそうです。これらの場所は、世界遺産登録に向けて10年以上も準備を続けてきただけあり、案内内容も充実しているようですので、リピートして周る人たちも多くなるのではないかと思います。
潜伏キリシタンと隠れキリシタン(カクレキリシタン)の違いって?
世界遺産登録への正式勧告という一報を聞いたとき、潜伏キリシタンとは?と思った人は私だけではないのではないでしょうか?
学生時代に歴史の授業で習った「隠れキリシタン」という言葉の方が馴染みがある方も多いと思います。
勿論、その潜伏という言葉から、同じように禁教下、隠れて信仰を続けていたキリシタンであるだろうと想像はつきましたが、なぜ敢えて、潜伏キリシタンという単語を使うのか、調べてみました。
2007年1月にユネスコの世界遺産暫定一覧表に登録された時には、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」という名称でしたが、2016年9月には「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」へ変更し、国からユネスコへ推薦書暫定版が提出されました。
これは、2015年に最初の現地調査を行ったユネスコの諮問機関であるイコモスが、2016年1月の段階で「禁教期に焦点をあてるべき」という意見を出したことに基づいています。
日本における鎖国時代と並行して、キリスト教禁教期があったわけですが、厳しい禁教下、表向きは、仏教、神道を信仰すると装いつつ、独自の形で隠れながらも、潜伏しつつキリスト教を信仰した人々を潜伏キリシタンというそうです。
つまり、キリスト教が解禁された1873年以降に、カトリックに復帰した人々は潜伏する必要はなくなったわけですから、ここで潜伏キリシタンの歴史は終わりを告げるわけです。
このような背景の下に、禁教期に焦点をあてた世界文化遺産ということで、「潜伏キリシタン」という言葉が使われたことになります。
それでは、「かくれキリシタン」とはどのような人々なのでしょうか?
長崎市修学旅行ナビでは、「明治になって禁教令が撤廃された後も、潜伏時代の独自に行ってきた信仰形態を継承した人々を、かくれキリシタンと呼んでいます」と書かれています。
出典:https://syugaku.at-nagasaki.jp/learning/church/
かくれキリシタンは、宣教師がいない中、2世紀以上も先祖が残してきた儀礼や行事を大切に伝承し続け、禁教令が廃止されたあとも、カトリックに復帰することなく、その独自の信仰を続けました。
現在でも長崎県の生月島(いつきじま)や熊本県天草などで、その教えを信仰する人々がいるそうです。
日本の宗教学者、長崎純心大学教授である宮崎賢太郎(みやざきけんたろう)氏は、その著書「カクレキリシタン オラショ―魂の通奏低音 」の中で、現在の隠れキリシタンは隠れてもいなく、キリシタンでもなく、長い年月の中で、完全に日本化した土着信仰であるという立場をとり、隠れキリシタンを信仰する人々のことを、片仮名で「カクレキリシタン」と表記しています。
また、国指定の無形民俗文化財としては、長崎「かくれキリシタン」習俗 (ながさきかくれきりしたんしゅうぞく)とされています。
つまり、禁教期の潜伏キリシタンから始まったものの、禁教令撤廃後も、その独自の信仰を続け、今では、土着の人々の生きた信仰生活のなかに完全に溶け込んだ、典型的な日本の民俗宗教のひとつとなったものが、「かくれキリシタン」だったのです。
イコモスの勧告とは?
世界遺産登録の正式勧告をイコモスから受けたというニュースを見て、イコモスって何だろう?と思った人も多いと思います。
私もその一人だったので、調べてみました。
ユネスコの世界遺産とよくいわれれますが、正式には、ユネスコ(UNESCO)は世界遺産の登録について正式に判断を下す最終機関になります。
ユネスコの世界遺産登録委員会で認めてもらうことで、正式に世界遺産に登録されるそうです。
日本イコモス国内委員会のHPによると、イコモスとは、国際記念物遺跡会議(ICOMOS/ International Council on Monuments and Sites)のことで、文化遺産保護に関わる国際的な非政府組織(NGO)であり、1964年にユネスコの支援を受けヴェニスで開かれたSecond 第2回歴史記念建造物関係建築家技術者国際会議で、記念物と遺跡の保存と修復に関する国際憲章(ヴェニス憲章)が採択されました。
これを受け1965年にイコモスが設立されたそうです。
文化遺産保護の原理、方法論、科学技術の応用の研究などを続けるだけでなく、ユネスコの諮問機関として、世界遺産登録の審査、モニタリングの活動を続けています。
世界遺産登録について、イコモスは、各国政府(世界遺産条約締約国)から推薦された遺産に対して、調査を行い、専門家の観点から評価を下して世界遺産委員会に報告をします。
この報告を「勧告」といいます。イコモスの勧告は、「登録勧告」「情報照会勧告」「登録延期勧告」「不登録勧告」という4段階に分かれています。
今回の潜伏キリシタン関連資産が受けたのは、この登録勧告であり、このようにイコモスの登録勧告が出されたあとで、世界遺産登録委員会で登録が拒否された前例はないそうですから、安心して、今年の6月の世界遺産登録委員会を待つことができるようですね。
イコモスの本部は現在、フランスのパリ近郊のシャラントン=ル=ポンにあります。
他の国の世界遺産と比べると?
潜伏キリシタン関連資産の世界遺産登録正式勧告のニュースが流れる中で、日本では〇〇番目の世界遺産になるなどの情報が幾つも流れたのですが、数字が一定していなかったので調べてみました。日本国政府として世界遺産に登録されているものは、2017年までに全部で21件あり、その中で自然遺産が4件ですから、文化遺産としては17件となります。潜伏キリシタン関連資産は日本において、第18番目の世界文化遺産になるわけですね。
世界文化遺産、世界自然遺産、世界複合資産と、世界遺産は3つに分類されます。顕著な普遍的価値をもつ地形や生物多様性や景観美をもつ土地を対象とした自然遺産、建築物や遺跡などを対象とした文化遺産、文化と自然の両方に普遍的価値をもつものを対象とした複合遺産があります。日本にはまだ複合資産はなく、世界的にもその数は文化遺産、自然遺産と比べてはるかに少ないようです。
それでは、他の国の世界遺産の数はどうなっているのでしょうか?
世界遺産の総数は2017年末時点で1,073件となり、その内訳は文化遺産832件、自然遺産206件、複合遺産が35件となってます。
アジアの中では、中国が52、インドが36、その次の3位が日本の21件となり、第4位は、韓国の12件でした。
ヨーロッパでは、イタリア53、フランス43、スペイン46、ドイツ42、イギリスが31と、日本人がぱっと思い浮かぶ大国は流石に登録数も多いですね。
意外だったのが、北米でした。アメリカが23、カナダが18件でした。大国ではありますが、やはり歴史の長さも関係しているのかもしれません。
この数を見ても、日本が今後観光大国になっていくのは間違いなさそうです。
2017 年の訪日外客数が前年比19.3%増の2,869万1千人となり、日本政府としては2020年には4千万人を目指しています。
潜伏キリシタン関連資産のように、12資産と見ごたえのある世界遺産となると、日本国内の観光客ばかりでなく、外国人観光客も魅了していく強力な観光地になっていくのでしょうね。
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