2018年ロシアWCで2大会ぶりのベスト16に進出した西野監督率いる日本代表チームにとっての2018年W杯の幕が降りたのも束の間、次期日本代表監督決定に向けて色々な動きがあるようです。
そんな中で入ってきたニュースは、今回のワールドカップ(W杯)ロシア大会西野ジャパンでコーチを務めた森保一(もりやすはじめ)氏が、次期日本代表監督として最有力候補であり、すでに日本サッカー協会は森保氏に意思確認を行なったとのこと。
Jリーガー出身初のJ1リーグ優勝監督経験者が、日本代表監督として日本代表を率いて、2022年FIFAワールドカップカタール大会に臨んだら、どのような結果となるのか?
オールジャパンサッカーの大きな可能性に、日本全体が気づいてしまった今、次期監督最有力候補である、森保一氏のサッカー選手時代、そして指導者経歴など、次期日本代表監督最有力候補になった所以は何かに迫って行きたいと思います。
目次 Contents
全く無名だった高校時代
森保一氏は、2017年10月就任以来、2020年東京オリンピックに向けての、日本五輪代表チームの監督を務めています。
日本五輪代表とは、U-23サッカー日本代表(アンダートゥエンティスリーサッカーにほんだいひょう)という別名を持ち、オリンピック開催年に23歳になるまでの選手が対象となる若き日本サッカー代表チームです。
もし、森保一氏が、W杯サッカー代表監督に就任した場合、2000年シドニーオリンピックと2002年ワールドカップ日韓大会で結果を残したトルシエ監督以来の兼任監督となります。
<プロフィール>
名前:森保一 (もりやすはじめ)
愛称:ポイチ
生年月日:1968年8月23日
年齢:49歳(2018年7月現在)
出身地:長崎県長崎市
身長:174cm
体重:68kg
出身校:長崎日本大学高等学校
選手時代のポジション:MF/DF
利き足:右足
家族構成:妻(森保由美子もりやすゆみこ)、長男(森保翔平もりやすしょうへい)、次男(森保圭悟もりやすけいご)、三男(森保陸もりやすりく)
森保一氏は、静岡県掛川市で生まれましたが、お父様が造船業関係者だった為、幼少期は、名古屋市、横須賀市、唐津市と転居を繰り返しましたが、小学校1年生の時に長崎県長崎市に移り、そこに定住することになりました。
2018年の今年、世界遺産登録となった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン世界遺産」の地で少年時代を過ごしました。
小学校5年生から本格的にサッカーを始め、小学6年の時には、全日本少年サッカー大会にゴールキーパーとして出場しています。
地元の長崎市立深堀中学校に進み、地元サッカー少年憧れの強豪校、長崎県立国見高等学校に進学を考えていたようですが、高校受験に真剣に取り組まない森保一氏に、厳しいお父様は、国見高受験を許さなかったそうで、結果的に長崎日大高に進学しました。
当時は、国見高と長崎県立島原商業高等学校の二校が全盛期であった為、結果的に森保一少年は高校時代に、全国高等学校サッカー選手権にもインターハイにも出場することなく、全国的には全く無名の選手でした。
森保一氏の愛称はポイチですが、これは高校時代につけられたそうです。
公式記録などで「森保 一」ではなく、「森 保一」と間違われる事が多かったことから、ポイチの名前が始まりました。
ちなみに、同じ姓の為、HKT48のメンバーであるアイドルの森保まどか(もりやすまどか)さんが、森保一氏の娘さんではないかという噂があったようですが、全く関係はないそうです。
「森保」という苗字は全国的にも人数が少ない(長崎県、広島県、岡山県に多く見られる姓)為、一般的に馴染みが少ない事と、同じ長崎県長崎市出身という事で流れた噂だったようです。
マツダサッカー部(現サンフレッチェ広島)から始まったプロ選手人生
そのように全く無名だったサッカー少年がどうしてプロ選手になれたのでしょうか?
森保一氏は、2012年、2013年とサンフレッチェ広島の監督としてチームをJリーグ2連覇をさせました。
その時のインタビューで、このように語っています。
そもそもサッカーで飯が食えて、その上、日の丸を背負う代表選手になれるとは思っていなかったですから。
今の自分があるのは今西さんのお陰です。
無名の高校サッカー少年をプロの道に導いたのは、マツダのJリーグ参入に尽力し、1992年Jリーグ創設でサンフレッチェ広島が発足すると取締役強化部長兼・総監督に就任した今西和男(いまにしかずお)氏の先見の明にあったのです。
長崎日大高3年生になる春のある日に、森保一少年が学校で練習をしていると、大きな男性二人が、訪ねてきました。
その二人というのは、当時マツダで強化部長であった今西和男氏と、コーチのハンス・オフト(Hans Ooft、ハンスは愛称、本名マリウス・ヨハン・オフト/Marius Johan Ooft)氏でした。
長崎日大高サッカー部顧問だった下田規貴(しもだのりたか)氏が、親交のあった今西和男氏宛にその年の正月に出した年賀状に、「是非見て欲しい選手が一人いるので一度お越し願いたい」と依頼していたのです。
選手権にもインターハイにも出場したことはなく、高さも速さもまだ無かった森保少年を見たハンス・オフト氏は、その時は何の興味も示しませんでした。
でも、今西和男氏は違いました。
「スピードが無く目立たないが、良い姿勢をとり、視野が広い。危機を察知する能力があって、危ないところをカバーするためにいつもよく動いている。」
無名のサッカー少年が、プロの森保一選手となるきっかけが生まれた瞬間でした。
何度も長崎日大高を訪れた今西和男氏は、森保少年を、マツダに必要な人材と確信し、当時日本リーグ1部のマツダサッカー部に採用を決めました。
その年のマツダサッカー部の採用枠は6人でした。
が、予算編成の段階で6人枠が5人に削られ、あわや、森保一選手マツダ入団の危機が訪れたのですが、それすらも今西和男氏が振り払いました。
マツダ本社ではなく子会社のマツダ運輸への入社とし、登録をマツダサッカー部にするべく取り計らったのです。
今西氏に出逢う前の森保少年は、漠然と、高校を卒業したら、サッカー部のある会社に入ってサッカーを続けられればいいな・・・と思っていたそうです。
だからこそ、「今の自分があるのは、今西さんのお陰です」という繋がったのでしょう。
この奇跡的な出逢いと今西和男氏の英断と取り計らいがなければ、プロサッカー選手としての森保一氏は存在しなかったに違いありません。
マツダ、そして日本代表へ
1987年、森保一氏はマツダ運輸(現マツダロジスティクス)に入社し、サテライトチームであるマツダ東洋SCでプレーを始めました。
今西和男氏は、1984年、現場はプロに任せ、自身はGM業務に専念するという目的で総監督となり、コーチにオフト氏を招聘しました。
これが後に、今西和男氏が「初の外国人代表監督を招聘した男」とされる所以です。
日大高時代の森保少年には興味を示さなかったオフト氏でしたが、マツダに入ってからの森保選手の練習を見て、トップチームに参加させるようになりました。
が、ここから2年間、水やネットを運ぶといった雑用ばかりで、日本リーグに出場させてもらえないという下積み時代が続くのです。
オフトコーチは1985年にチームの日本リーグ1部復帰に貢献し、森保一氏が入団した1987年には監督として、チームを天皇杯優勝に導きましたが、翌年1988年に再び、2部に落ちた責任をとって辞任しました。
日本を去るとき、オフト氏は以下のような言葉を今西総監督に残していったそうです。
このチームには将来プロの指導者に成れるやつが3人いる。
それは、前川和也(まえかわかずや・現FCバイエルンツネイシ・スクール統括チーフ兼GKコーチ)、横内昭展(よこうちあきのぶ・現サンフレッチェ広島トップチームヘッドコーチ)、森保一だ。
この時、森保一選手は一度も試合に出場していませんでした。
オフト氏の後任として、イングランドのビル・フォルケス氏が監督として招聘されました。
このマンチェスターユナイテッドの伝説のキャプテンだったフォルケス監督も森保選手の資質を見出しました。
そして遂に、1989年にJSL2公式戦デビュー、風間八宏選手(かざまやひろ・2012-2016年川崎フロンターレ監督)のアシストで先制点および2点目を挙げたのです。
高校時代は無名、マツダ入団後も試合経験がなかった森保一選手が成功体験をできる相手との時に起用しようという、今西サッカー部長とフォルケス監督が周到に準備したデビュー戦でした。
フォルケス監督から仕込まれた激しく戦うサッカー、そして持ち前の視野の広さが危機管理能力を生み出し、労を厭わない運動量と共に相手チームの決定的なパスを遮断するスキルとなって開花し、森保一選手はマツダでの不動のレギュラーの座を得たのでした。
1990年、今西氏はフォルケス監督のコネクションをたどり、森保選手を含めた4人の選手を、マンUに1ヶ月間、短期留学をさせます。
サッカーの母国イングランドで、真のプロサッカーとはどのようなものかを体験させるためです。
帰国後、チームメイトの前で、マンチェスターでの体験を堂々と発表した森保選手は、その直後、結婚式を挙げました。
そして1991年に、マツダと正式にプロ契約を結び、同年、チームはJSL1部復帰を果たします。
無名の高校時代から長い下積み期間のあった実業団選手時代を経て、プロサッカー選手森保一が誕生したのです。
翌年のJリーグ開幕を控え、日本においてサッカー実業団選手のプロ化が急激に進んでいた時期の1992年4月、日本代表チームを国際レベルに引き上げることを目的とした日本初の外国人代表監督にハンス・オフト氏が就任しました。
オフト氏によって日本代表チームメンバーとして初招集された森保一選手は、1992年5月、オフトジャパン初戦であるアルゼンチン戦(0-1で敗戦)に先発メンバーとして出場しました。
その時アルゼンチン代表チームのアルフィオ・バジーレ監督とクラウディオ・パウル・カニーヒア選手が「日本には良いボランチがいる」と高い評価をしたことから、「森保(もりやす)」という名前と「ボランチ」という用語に脚光が当たるようになり、日本において守備的MFが誕生したのです。
ボランチ(〈ポルトガル〉volante)
《自動車などのハンドルの意》サッカーで、中盤で相手の攻撃の芽を摘み、深い位置からゲームを組み立てる選手。
コトバンク
Jリーグ現役時代
1993年Jリーグ(日本プロサッカーリーグ)が開幕すると共に、サンフレッチェ広島(旧マツダ)で、新監督スチュワート・ウィリアム・バクスター(Stuart William Baxter・現南アフリカ共和国代表監督)の指揮下で、森保選手は、公式戦初のゴールをアシストした風間選手と共にチームの中盤を支える活躍をしました。
また、並行して、ワールドカップアメリカ大会アジア予選に参加していましたが、1993年カタールの首都ドーハでの日本代表対イラク代表戦で、ドーハの悲劇を体験します。
あと一歩のところでのFIFAワールドカップ初出場が、後半ロスタイムでのイラクの同点ゴールにより、惜しくも予選敗退となったのです。
W杯初出場をあと一歩のところで逃すという残念な結果となりましたが、ハンス・オフト監督は、1992年の就任以来、その年にダイナスティカップ優勝、アジアカップ優勝と、日本代表チームを国際化基準に押し上げることに大きな貢献をしました。
日本代表守備的MFとして、オフト監督指揮下で国際試合を経験したボランチ森保選手は、今の日本代表チームの礎を築く重要な経験をしたのでした。
一方、サンフレッチェ広島は、Jリーグ2年目の1994年の1stステージを制し、サントリーリーグで初優勝を果たします。
この優勝に大きく貢献したのが、バクスター監督が採用した日本初のダブルボランチ(森保選手と風間選手)。
ダブルボランチとスピードのあるDFラインによってポストプレーを活かすという、攻守のバランスが取れた組織的サッカーが魅力のチームでした。
が、2ndステージのニコスシリーズになると、組織的サッカーが相手方に読まれるようになり、得点力が低下。
結果的に、Jリーグチャンピオンシップではヴェルディ川崎に敗れ、年間優勝は叶いませんでした。
組織的サッカーの崩壊により、バクスター監督は新しく外国人有力選手の獲得を求めましたが、クラブ側は高い移籍金と年棒に難色を示し、結果的にクラブはバクスター監督を諦めることになりました。
翌年1995年、オフト氏の推薦でオランダ人のビム・ヤンセン監督が就任し、システマティックサッカーから一変し、個を重視したオランダ風のトータルフットボールを目指します。
一方、森保選手は同年7月に右足首関節脱臼骨折をしてしまい、満足に活躍することが出来なくなってしまいました。
1995年シーズン末から、チームは、財政難から次々と人材を放出していき、そのクラブ側のやり方に嫌気がさしたヤンセン監督は、1996年シーズンを最後に退団してしまいます。
1997年末、経営悪化がピークに達したサンフレッチェ広島は、森保選手を含む主力放出を余儀なくされました。
1998年森保選手は、京都パープルサンガ監督となったオフト氏から誘われ、同チームに移籍します。
サポーター達は、この数々の主力選手放出に対して大々的に抗議署名活動を行いましたが、結果的には森保選手のみ、当初の完全移籍からレンタル移籍となりました。
森保選手一人のみのレンタル移籍という結果に、広島サポーター達の失望感が高まり、観客動員数がまた減少していき、チームは大きなネガティヴスパイラルに陥っていったのです。
1999年、サンフレッチェに復帰し、2001年までプレーしますが、怪我などで満足にプレー出来ませんでした。
2002年、サンフレッチェ広島からのスタッフ転身オファーを振り切り、現役にこだわりベガルタ仙台に移籍。
2003年シーズン末に、チームがJ2降格となり、森保選手にも戦力外通告がなされます。
2004年1月に引退表明。
マツダから始まった17年間の成績は、通算434試合出場、48得点。
日本における、サッカーの一大転換期を駆け抜けた森保一選手の、現役選手生活の幕が降りました。
指導者として始動。そしてサンフレッチェ広島監督に
現役選手を引退した森保一は、2004年、指導者としてのキャリアを開始します。
16年前、オフト氏が今西氏に残した予言が実現する時が来ました。
まず最初に、2004年サンフレッチェ広島強化部コーチに就任。
そしてユース日本代表の指導者としても始動します。
2005年2月U-19日本代表コーチと兼務し、2006年11月にAFCユース選手権にU-19日本代表コーチとして準優勝。
結果、翌年2007年6月にカナダで開催された2007FIFA U-20ワールドカップにもコーチとして参加し、日本代表チームは決勝リーグに進みました。
この大会では、準々決勝に進むことは出来ませんでしたが、日本代表はフェアプレー賞を受賞しました。
2007年9月からミハイル・ペトロヴィッチ監督のもと、現役選手時代のほぼ全てを捧げた古巣、サンフレッチェ広島のトップチームコーチに就任します。
2010年からはアルビレックス新潟(当時J1、2017年末J2降格)のヘッドコーチに就任し、2年間務めました。
2011年末、大きな転機が訪れます。
2006年にサンフレッチェ広島の監督に就任したペドロヴィッチ監督は、2008年に一度J2降格となるも続投(当時は異例)をし、2011年まで長年かけてチームを作り上げていきました。
一方で、2011年、サンフレッチェ広島はプロクラブ創設から過去19年間での累積赤字20億という深刻な財政赤字に直面していました。
それと同時に、2013年に導入される予定のJリーグクラブライセンス制度(Jリーグのプロクラブ資格制度)に適応していくため、その財政改革を早急に迫られていたのです。
解決方法としてクラブが選択した方法は、約21億円の99%減資による累積赤字解消、そして2億円の第三者割当増資でした。
この多額の減資を受け入れてくれた株主のために行った大きな経営改善策として、クラブは高年棒のペトロヴィッチ監督との契約延長を断念せざる追えませんでした。
そこで、次期監督は、ペトロヴィッチ監督の作り上げたチームと、サンフレッチェ広島のチーム方針を深く理解する広島OBから選出という方針となり、森保一氏に監督就任要請がなされたのです。
クラブ史上初の、クラブ出身、生え抜きの監督誕生でした。
2012年、森保一氏はサンフレッチェ広島に監督としての復帰後、クラブ史上初めてのJ1年間優勝を果たします。
また、2013年には、最終節で2位というギリギリの状態で、アウェイの鹿島スタジアムで鹿島アントラーズを2対0で制し、首位であった横浜FMが、川崎フロンターレに0対1で敗れたため、劇的な逆転優勝となり、チームを2年連続優勝に導きました。
2014年はJリーグ史上3連覇を成し遂げた鹿島アントラーズに次ぐ2チーム眼の3連覇を目指しリーグ戦に臨みましたが、結果は8位。
が、2015年は巻き返しをはかり、J1年間優勝を果たし、森保一監督は2012年就任から4年間の間で3度のJ1年間優勝にチームを導きます。
また、その4年間連続でフェアプレー賞高松宮杯を受賞し、恩師である今西和男氏の教えに酬いる事が出来ました。
経営改善のため積極的な補強を行えず、手薄なところをピンポイント補強するか、あるいは現役ユース生を高校生Jリーガーとして登用するしかない中で成し遂げた快挙でした。
しかしながら、2年間の監督契約更新で迎えた2016年は、選手達の故障、移籍の問題を抱え精彩を欠き、1stステージ4位、2ndステージ10位という結果に終わります。
続く2017年、攻撃陣の不調もあり、開幕からJ2降格圏内となったため、成績不振の責任を取って、2017年7月4日、森保一氏はサンフレッチェ広島辞任を発表しました。
サンフレッチェ広島監督時代の森保一氏には”初”や”史上○人目”という表現がやたらと付いて回りました。
1.サンフレッチェ広島、プロクラブ史上”初”の生え抜き監督
2.元日本人Jリーガーとして”初”のJリーグ監督
3.2012年に日本人新人1年目監督として、松木安太郎(まつきやすたろう)氏以来”史上2人目”のJ1年間優勝
4.2013年には、松木氏(ヴェルディ川崎)、岡田武史(おかだたけし・横浜Fマリノス)氏、オズワルド・オリヴィエラ(Oswaldo De Oliveira Filho・鹿島アントラーズ)以来、”史上4人目”のJ1連覇達成
日本サッカー国際化の黎明期を駆け抜けてきた森保一氏ならではの記録ではないかと思います。
2022年ワールドカップカタール大会に向けた次期日本代表監督選定の動き
2022年開催のサッカーW杯カタール大会で、より上位の成績を獲得する為の動きが活発化してきました。
実際、ロシア大会で日本が出場した4試合が行われているのと同時並行して、監督選びは進行していったようです。
2018年4月9日、日本サッカー協会は、ヴァイッド・ハリルホジッチ日本代表監督の解任と、後任は同協会技術委員長の西野朗(にしのあきら)監督と発表しました。
2018年FIFAワールドカップロシア大会開催まで、残り2ヶ月という短い期間の中、「一体どうなってしまうのか?」と日本中のサポーター達の心配は膨れ上がります。
その心配の中開幕した2018年FIFAワールドカップロシア大会、日本代表チームはグループリーグ初戦の対コロンビア戦で2対1とFIFAランキング16位の強豪コロンビアを下し、アジア勢として南米チームに対する初勝利という記録を打ち立てたのです。
そして、サポーター達の心配を大きく裏切り、2大会ぶりの決勝トーナメント進出。
初のベスト8進出をかけてのベルギー戦は、3対2と敗れたものの、結果、大会3位となったベルギーとの互角の戦いを繰り広げ、多くの日本人サポーター達を湧かせてくれました。
この躍進は、大きなサプライズとして海外メディアでも高く評価されているようです。
アメリカのスポーツ専門誌『Sports Illustrated』が行ったレビューで、2018年ワールドカップロシア大会出場32カ国の中で、期待より上だったか?下だったか?という内容のランキング化をしたところ、日本がクロアチアについで2位になりました。
ワールドカップ初出場以来、最弱だろうと考えられていた日本代表チームが、結果的には今までのワールドカップの中で、ベストパフォーマンスをしたと称えています。
出典:サッカーダイジェストWeb
短期間でもチームをまとめ上げ、結果を残したこの西野監督の功績は、日本人としての感性・コミュニケーション力によるものという評価が高まり、次期監督は”日本人監督路線”が強まっていったようです。
そして最有力候補に躍り出たのは西野ジャパンでもコーチを務めた森保一氏です。
が、一方、国際的な経験が少なすぎるのではないかという声も上がっているようです。
確かに、サンフレッチェ広島監督時代、3回のJ1年間優勝を果たしましたが、それに伴って出場した国際大会であるAFCチャンピオンズリーグでは、いずれも不振に終わっており、国際的な試合で力を出しきれていなかったという見方は強いようです。
ただし、開催国王者枠として3年ぶりに出場したFIFAクラブワールドカップ2015では健闘しました。
オークランド・シティFC、TPマゼンベを破り、準決勝進出をし、南米王者であるリーベル・プレートに0-1で敗退して3位決定戦へ。
3位決定戦では、アジア王者で中国スーパーリーグ王者の広州恒大にドウグラスの2ゴールで逆転勝ちをし、2007年の浦和レッズ、2008年のガンバ大阪に次ぐ、日本のクラブ史上3チーム目の3位入賞を果たしました。
それでは、2017年7月に就任したU-23サッカー日本代表監督としての実績はどうなっているのでしょう?
森保一U-23サッカー日本代表監督誕生以来の最初の大きな大会は、2018年1月9日から1月27日にかけて中国で開催された第3回目のAFC U-23選手権2018でした。
グループリーグは、グループBの中で、対パレスチナ、北朝鮮、タイ戦全てに勝利し、グループ1位で決勝進出。
決勝トーナメント、準決勝では対ウズベキスタン戦に0対4で敗退しました。
対戦相手だったウズベキスタンは、この大会でベトナムを決勝戦で下し、優勝しています。
次に、2018年3月21日から3月25日にかけて、南米ウルグアイで開催されたスポーツ・フォー・トゥモロー(SFT)プログラム南米・日本U-21サッカー交流親善試合に参加しましたが、結果は対チリ戦、パラグアイ戦では、それぞれ0対2、1対2と敗戦し、対ベネズエラ戦では3対3と引き分けましたが、全体として最下位となってしまいました。
※1位:チリ、2位:パラグアイ、3位:ベネズエラ、4位:日本
また、2018年5月26日から6月9日にフランスで開催された第46回トゥーロン国際大会 2018に参加します。
12カ国のチームが、グループA:イングランド、中国、メキシコ、カタール、グループB:フランス、韓国、スコットランド、トーゴ、グループC:カナダ、日本、ポルトガル、トルコに分かれて、グループリーグを戦いました。
日本代表はグループリーグにおいて、対トルコ、ポルトガル、カナダ戦で、1対2、3対2、1対1、1敗1勝1分けと善戦しましたが、一歩及ばず、グループ3位となり、7・8位決定戦でトーゴに1対0で勝ち、7位に終わりました。
※1位:イングランド、2位:メキシコ、3位:トルコ、4位:スコットランド、5位:フランス、6位:カナダ、7位:日本、8位:トーゴ、9位:ポルトガル、10位:中国、11位:韓国、12位:カタール
今後、直近では(2018年7月末時点)、2018年8月18日から9月2日にインドネシアで開催される第18回アジア競技会に参加する予定になっています。
大方の予想通りであれば、森保一ワールドカップ日本代表監督が決定された後の、U-23日本代表の公式戦ですので、注目が高まることと思います。
気になる年棒は?
欧州名門クラブの監督の年棒は、国代表チームの監督の年棒とは比較にならないほど高いようで、最低ラインが10億円だそうです。
イングランド・プレミアリーグの強豪アーセナル監督を22年間務めたアーセン・ベンゲル氏の監督年棒はなんと22億円だったとのこと!
一方、2018年ロシア大会ドイツ代表の最高年棒額は、ヨアヒム・レーヴ監督の5億円。
レーヴ監督は、ロシア大会でのまさかのグループリーグ敗退により、解任が危ぶまれましたが、2022年までの契約を結んでいることもあり、続投決定との発表がありました。
Today’s Pressekonferenz ⚽୧(^ᴗ^)୨⭐⭐⭐⭐ Jogi & Matze & Boa * #Japan #Japanese #adayinthelife #pic #picoftheday #photo #photooftheday #football #fussball #soccer #サッカー #Fußball #ドイツ代表 #DieMannschaft #Nationalmannschaft #JoachimLoew #JogiLoew #ヨアヒムレーヴ #Ginter #boateng #⚽
試合数などが比べ物にならないので、致し方ない部分があるででしょうが、相当な開きがありますね。
代表監督年棒を引き上げていると言われている、ダントツトップの監督は、中国代表のマルチェロ・ロメオ・リッピ(Marcello Romeo Lippi)監督で、2018年W杯出場は逃しましたが、2019年10月まで契約があり、推定年棒は36億円と言われています。
勝ちたいところでは、惜しみなくお金を使う大国、中国という感じです。
日本サッカー協会の予算上は2億5千万円が年棒の限界と言われているようですが、「2、3億円レベルだと当たり外れが大きく、外国人監督にこだわるのであれば5億円は必要」との見方もあるようです。
一方、”サッカーJリーグ 監督年俸ランキング”によると森保一氏のサンフレッチェ広島監督時代の推定年棒は7,000万円。
そして、東京五輪代表監督の推定年棒としては、史上最高額である4,800万円です。
ハリルホリッジ監督の推定年棒は2億7,000万円、急遽、代表監督に就任した西野朗監督は推定1億2,000万円と言われています。
そうなってきますと、森保一氏が代表監督となった際には、少なくとも1億円前後の年棒にはなると思われます。
考えようによっては、予算縮小にも見えてしまいますが、それが第一趣旨ではないと思いたいですね。
家族構成は?
森保一氏は、奥様である由美子さんと1990年に結婚なさいました。
妻の由美子さんは、一般人女性のようで、全くと言っていいほど情報がありません。
が、息子さんたちは、どうでしょう?
なんと3人の息子さん、全員がサッカーの道を歩んでいるという、超サッカー一家でした。
また、2学年違いの弟、森保洋(もりやすひろし)さんも元プロサッカー選手で、現在はV・ファーレン長崎アカデミーダイレクター兼U-18監督をなさっています。
長男:森保翔平(もりやすしょうへい)さん
生年月日:1991年8月17日
年齢:26歳(2018年7月現在)
出身地:広島県
身長:171cm
体重:63kg
出身校:法政大学
ポジション: DF
2014年〜2015年 カマタマーレ新潟所属
次男:森保圭悟(もりやすけいご)さん
生年月日:1993年9月22日
年齢:24歳(2018年7月現在)
出身地:広島県
身長:164cm
体重:60kg
出身校:流通経済大学
ポジション: MF
2016~2017年 エッジワース・イーグルスFC(オーストラリア)
2018年〜JPVマリキナFC(フィリピン)
I’ve signed with JPVmarikinaFC in Philippines Can’t wait to start the new season 今年はフィリピンでプレーする事になりました! いろいろな事を吸収し、楽しみながら頑張ります!
三男:森保陸(もりやすりく)さん
生年月日:2000年7月27日
年齢:17歳(2018年7月現在)
出身地:広島県
身長:179cm
体重:69kg
出身校:広島県立吉田高等学校(在学中)
ポジション: DF
サンフレッチェ広島ユース所属
3人息子が3人ともサンフレッチェ広島ユース出身という、まさしく、サンフレッチェファミリーです。
サンフレッチェ広島ユースに所属すると、全寮制で全員広島県立吉田高校に通うそうですから、森保三兄弟は全員、吉田高校に通ったことになります。(三男陸さんは在学中)
ここまで広島愛に溢れた森保一氏が、日本代表監督候補になったのですから、サンフレッチェサポーターの方達は、どんなに喜んで、誇らしく思っていらっしゃるのか、計り知れません。
2022年FIFAワールドカップ カタール大会に向けて
FIFAワールドカップ日本代表チームは、1998年第16回フランス大会でワールドカップ初出場を果たしてから、2002年第17回日韓大会、2006年第18回ドイツ大会、2010年第19回南アフリカ共和国大会、2014年第20回ブラジル大会、そして今年2018年の第21回ロシア大会と、6大会連続で出場しました。
この6大会出場の中で、決勝トーナメントに残ったのは、2002年第17回日韓大会、2010年第19回南アフリカ共和国大会、2018年第21回ロシア大会の3大会です。
2002年日韓大会では、フィリップ・トルシエ監督の指揮の下、初のベスト16入りを果たし、そして2010年南アフリカ共和国大会では岡田武史監督、2018年ロシア大会では西野朗監督が、チームを決勝トーナメントに進めました。
日韓大会は、開催国だったため予選リーグ免除の出場でしたので、予選リーグからの長い道のりに勝ち残ったチームが、ワールドカップ本大会でのベスト16入りした時の監督は、両方日本人監督だったことになります。
初の日本代表監督に外国人監督としてオフト監督起用から、日本代表監督は11回代わり、その中で、日本人監督は3人(岡田武史氏は2回起用されたので日本人監督起用は4回)。
ワールドカップ初出場の1998年フランス大会から、2018年ロシア大会までの日本代表監督の数は、のべで9人(岡田武史氏は2回起用のため、実質8人)、その中の日本人監督は2人。
そう考えてみると、ベスト16入りを果たしたのが、日本人監督の二人のみですから、やはり日の丸を背負った戦いには、オールジャパンの力は想像以上に大きいのではないでしょうか?
また一方で、日本人代表監督が、4年間じっくりと代表チームを育て上げて、ワールドカップ本大会を全うした事は、ワールdPKアップ初出場以来一度もないのも事実です。
森保一氏が日本代表監督に就任し、これからの4年間の時間をかけて、チームを率い、2022年カタール大会で、大きな結果を残せたとしたら、真の意味でのオールジャパンパワーによる、国際レベルの日本のサッカーの確立となるのだと思います。
2018年ロシア大会優勝を果たしたフランス代表チームを率いたディディエ・クロード・デシャン監督は2022年までの続投を宣言しています。
デシャン監督は、1998年フランス大会でのフランス初優勝に貢献した名選手でもあります。
フランスは、代表監督をフランス人監督にこだわり、歴代代表監督23人の中で外国人監督を起用したのは2回のみでした。
また、開催国という強みもありましたが、見事にベスト8まで進出し、2位になったクロアチアとの準々決勝で延長・PK戦までもつれ込んで惜しくも敗退という素晴らしい結果を見せたロシア代表チームの監督もロシア人監督でした。
FIFAランキング70位ロシアが、自国開催といえども、ここまでの結果を残せたのは、オールロシアのチーム形成によるものではないかと思います。
もう一つ注目すべきは、森保一氏が、もしA代表の監督となったならば、U-23日本代表との兼任となる事です。
同じように、五輪監督とA代表との兼任となれば、上手く作用すれば、素晴らしいシナジーが生まれる事となるのではないでしょうか?
確かに、兼務の場合の日程調整などの課題があると言われていますが、それ以上の利点は、日本代表クラスの選手たちを、若手からベテランまで幅広く、そして深く理解することが出来るということです。
ワールドカップ6回連続出場を支えた選手たちの中の多くは、U-23で国際経験を積んだ五輪代表出身者です。
キャプテンを務めた長谷部誠(はせべまこと)選手や、本田圭佑(ほんだけいすけ)選手が、代表引退表明をした今、日本代表チームは、世代交代を余儀無くされています。
その世代交代を乗り切りつつ、更なるパワーに変えるという機会が、今ここに始まるのではないかと思います。
日本サッカーの一大転換期、そして国際化の黎明期を駆け抜けた森保一氏が、あのドーハの悲劇が起こった、因縁の地カタールで開催される2022年FIFAワールドカップカタール大会で、真のオールジャパンサッカーを築く姿を見てみたいと心から願います。
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