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NHK大河ドラマ「いだてん」金栗四三 日本マラソンの発展に賭けたその生涯を解説 ネタバレに注意!


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2019年1月6日放映開始の第58作目、NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」の主人公の一人、金栗四三(かなくりしそう)とはどのような人物なのでしょうか?
実は、日本では教科書にもその名を見せていないこの金栗四三とは、スウェーデン、ストックホルムでは知らない人はいないくらい有名な人物なのです。
今回は、金栗四三とは一体どういう人物か?を分かりやすく解説していきたいと思います。

いだてんとは?

翌年2020年の東京オリンピックを控え、2019年NHK大河ドラマは、1964年に日本で初めて開催された東京オリンピックにまつわる人物達を描いた「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」です。

このドラマの主人公は、六代目中村勘九郎さん演じる”オリンピックに初参加した男”「金栗四三(かなくりしそう)」と阿部サダヲさん演じる“オリンピックを呼んだ男”「田畑政治(たばたまさじ)です。

ドラマの名称である「いだてん」とは「韋駄天」のことです。
ゲーム好きの方々の中には、2019年元旦の10:00から12:00に降臨予定のモンストのキャラクター「韋駄天」が頭に浮かんでしまうかもしれませんが、このドラマの場合は「足の速い人」の意味の韋駄天(いだてん)の事となります。



韋駄天とは仏教の神様の名前です。
韋駄天は、もともと遠く遡ること、インド宗教最古の一つでありヒンドゥー教の源流となったバラモン教の神様でした。
このバラモン教とは、その後再編されてヒンドゥー教になっていきますが、その発祥は紀元前13世紀頃と言われています。
今は21世紀ですから、紀元前13世紀となると、44世紀分前のこと・・・とてつもない歴史です。

バラモン教にインドの各種民族宗教や民族信仰の影響が加わり、徐々に様々な人々によって再編成されて確立され他のが現在のヒンドゥー教です。
ヒンドゥー教の中で「韋駄天」であったのは、シヴァ神の子とされているスカンダ(Skanda)という軍神でした。
シヴァ神とは、現在のヒンドゥー教で最も影響力を持つ三柱の神の一人です。

このヒンドゥー教のスカンダが仏教に入り、仏法の護法神となったのが仏教の韋駄天です。

捷疾鬼(しょうしっき・夜叉ともいう・古代インド神話に出てくる鬼神)が仏舎利(お釈迦様の遺骨、仏様の骨)を持って逃げ去ったときに、韋駄天がこれを追って取り戻したとされており、この事から良く走る神様、そして盗難よけの神様ともされています。

その事から転じて「韋駄天走り」などと足の速い人の例えにされるようになりました。

NHKの人気番組「チコちゃんに叱られる」では、この仏舎利の事は、お釈迦様の歯という説明になっていました。

「ご馳走様」という日本人がいつも食事の後にいう言葉は、実は、韋駄天様という意味だったそうです。
馳走という言葉はそもそも、馳=速い、 走=走る という事から、韋駄天を現在意味するように、速く走るという、中国から来た言葉でした。
足が速かっただけでなかった韋駄天は、修行中の僧侶や人々の為に、食事を集めていたと言い伝えられています。
その結果、馳走が、「走り回って食事を集める」という意味となり、それが転じて「食べ物を集めて人をもてなす」という意味となりました。
そして江戸時代に「集めた立派な食べ物」を指す言葉が「馳走」となったそうです。
ご馳走様という言葉は、戴いた美味しい食べ物を奔走して集めてくれた韋駄天に感謝する言葉として広まっていきました。
現在では、食の守護神として多くのお寺に祀られているそうです。
・・・出典「チコちゃんに叱られる」」

実は、韋駄天(いだてん)という言葉は、気づかぬうちに、日本語、日本人の文化に、大きく根付いている言葉の語源になっていたのですね。

2019年NHK大河ドラマの名前は「いだてん」。
日本におけるオリンピックの歴史は、主人公である金栗四三が1912年の第5回ストックホルムオリンピック(スウェーデン)にマラソン選手として参加したことから始まりました。

金栗四三の生い立ち

金栗四三を表現する三つのキーワードがあります。
それは、大河ドラマ「いだてん」の紹介にもある”日本人として初めてオリンピックに参加した男”と、日本のお正月2日、3日の風物詩でもある”箱根駅伝の創設者”、そして”日本マラソンの父”の三つのワードです。

この3つのキーワードからも容易に想像がつくとは思いますが、日本の陸上界においての著名度は相当なものです。
そこまで陸上界においての業績が偉大であり、知名度が高いのにも関わらず、一般的に歴史上の人物として知れ渡っていないのは、やはり教科書などに取り上げられていないからでしょう。

金栗四三は、1891年(明治24年)8月20日、熊本県玉名郡春富村(現在の玉名郡和水町)で父、信彦、母、シエの間に男4人、女4人の8人兄弟の7番目の子供として生まれました。

学校は地元の吉地尋常小学校、玉名北高等小学校(現南関町立南関第三小学校)、旧制玉名中学校(現熊本県立玉名高校)と進学していきました。

玉名北高等小学校(現南関町立南関第三小学校)は、金栗四三の家から6キロ離れており、この往復12キロの山坂の難所を超えなくてはいけない道を、毎日走って往復することが、マラソンの基礎となったと金栗四三はのちに語っています。
この通学路は、地元では「金栗四三ロード」と呼ばれているそうです。

父親の金栗信彦は虚弱体質で、それを受け継いでしまったのか四三も幼少時は虚弱体質だったそうです。
でも5歳頃には健康な子供になり、自然豊かな地元で川で魚を釣ったり、走り回ったりとのびのびとした生活を送るようになりました。

小さい頃から勉強も良くできた四三は、学校でも1、2位の成績だったそうで、玉名北高等小学校を卒業後、学友とともに、地元エリアでは初となる旧制玉名中学校に進学しました。

もちろん、玉名中学でも、コツコツと勉学に励んだ四三は特待生になるほど成績優秀だったそうです。
玉名中学卒業後は、海軍兵学校を目指すのですが、結膜炎のため、身体検査に不合格となってしまいました。

実は、ここで結膜炎にかからず、海軍兵学校に希望通り合格していたら、のちの陸上界のレジェンドとなる金栗四三は誕生していなかったかもしれないのです。

そして1910年(明治43年)4月、四三は東京高等師範学校(現筑波大学)地理歴史科に入学したのでした。

嘉納治五郎との運命の出会い

金栗四三が進学した東京高等師範学校は、そもそも現筑波大学ですから、学業だけではなく、スポーツを推奨している学校で、そのため、年に2回、春と秋にマラソン大会を開催していました。

この時の東京高等師範学校の学長だったのが、明治から昭和にかけて日本のスポーツの道を切り拓いた嘉納治五郎(かのうじごろう)でした。
嘉納治五郎は、教育者であるとともに柔道家であり、講談館柔道の創始者です。
「柔道の父」とも呼ばれ、「日本の体育の父」とも呼ばれています。

東京高等師範学校に入学したばかりの金栗四三は、春と秋のマラソン大会に出場します。
春は3里(約12km)、秋は6里(約24km)の距離のマラソン大会です。

春の大会では、途中でトイレに行きたくなったという事態になり、25位と順位は奮いませんでしたが、秋には堂々、学内3位となった四三は、嘉納治五郎学校長から表彰されます。

これが、四三の運命を変える、嘉納治五郎との出会いでした。

金栗四三の1年生(予科)で3位という成績を嘉納治五郎は大きく賞賛しました。

東京高等師範学校では、2年生(本科)に進むと、必ず部活動に所属しなくてはならないことになっていました。
1911年(明治44年)に2年生になった四三は、嘉納治五郎の勧めもあったとか、マラソン大会での好成績で持久力に自信がついたとか、道具が必要ないとか様々な理由があったようですが、徒歩部(現在の陸上部)に入部しました。
ここから、金栗四三のマラソン人生、陸上競技者としての人生が始まったのです。

一方、嘉納治五郎は、1909年に、東洋初、IOC(国際オリンピック委員会)の委員になっていました。
近代オリンピックは、フランスの教育者ピエール・ド・クーベルタン男爵の尽力で創設され、1896年ギリシャで第1回アテネ大会から始まりました。
ちなみに、IOCの創設者がこのクーベルタンであったこともあり、オリンピックの公用語はフランス語と英語になっています。
1896年から第二代IOC会長となったクーベルタンは第4回までのオリンピック大会にアジアからの出場がなかったため、大会をより国際的なものにしたいと考え、アジアから日本のオリンピック参加を促そうとしました。
そこで当時の駐日フランス大使にIOC日本代表委員の推薦を依頼したところ、嘉納治五郎が推薦され、1909年のIOC総会で日本そしてアジア初のIOC委員に選出されたのです。

そして1911年には(明治44年)に大日本体育協会(現・日本体育協会であり、平成元年にここから日本オリンピック委員会(JOC)が独立)を設立して自ら会長となり、1912年の日本の初めてのオリンピック参加に向けて尽力をしていくのです。

オリンピック予選で圧倒的な速さで世界記録樹立

1911年(明治44年)10月、東京高等師範学校の2年生になり、入部した徒歩部(陸上部)で長距離走の訓練に励んでいた金栗四三は、翌年1912年に開催される第5回ストックホルムオリンピックの予選会が11月に開催されることを、新聞記事で知ります。

予選会の種目の中で四三の目にとまったのは、25マイルのマラソン競技でした。
25マイルは約40km、10里強の距離となります。
四三は、東京高等師範学校の秋季マラソン大会で6里までは走ったことはありましたが、10里という距離は未経験だったので、走り切れるかどうか迷ったのですが、思い切って出場してみることにしました。

1911年11月19日の予選会当日は、小雨混じりで風の強い悪天候でした。
現在と違い、スポーツウェアやランニングシューズもない時代でしたから、四三は、足袋を履いて、レースに臨みました。
そして、なんと人生初のマラソン競技、そしてオリンピック予選会で、途中、足袋が破れて裸足で走らなくてはいけないという事態に陥りながらも、金栗四三は一位でゴールインしたのです。

1位でゴールインという快挙だけでなく、この時の四三の記録は、2時間32分45秒、27分も記録を縮めての「世界新記録達成」!

本人はおろか、世界を驚かせる記録を樹立してしまった金栗四三!

実は、当時はマラソンの距離は大会によって異なるという状況でした。
現在では、フルマラソンというのは42.195キロ(26.22マイル)と誰にでも知られている距離になっていますが、その距離がフルマラソンの競技距離として固定されたのは、1924年、フランスで開催された第8回パリオリンピックでのことでした。



四三がストックホルムオリンピックの予選として走った距離は25マイルで、1912年第5回ストックホルムオリンピックでは24.98マイル、そしてその前の1908年第4回ロンドンオリンピックでは26.22マイルと、1.24マイルの差、キロメートルに換算すると約1.996キロになります。

そんな状況下の中での世界新記録樹立でしがた、27分を縮めたということは、2キロ近くの距離の差があったとしても、距離の差で出した記録レベルは遥かに超えていましたので、世界もあっと驚いたのでしょう。

日本初のオリンピックへの出場選手へ

1912年、嘉納治五郎が会長を務める大日本体育協会は、マラソン競技には金栗四三、短距離走には東京帝国大学の三島弥彦(みしまやひこ)を選出することを決定します。

嘉納治五郎から呼び出されて、オリンピック選手に選ばれたことを告げられた四三は一度は辞退したそうです。

この辞意の大きな理由は、そのオリンピック出場に向けて出場選手の前にたちはばかる大きな課題にもあったようです。
それは遠いスウェーデン、ストックホルムへの渡航費です。

当初は文部省が補助を約束してくれていたのですが、官立大学の学生が(金栗四三は東京高等師範学校生、三島弥彦は東京帝国大生)運動競技のような遊びで海外に渡航するなど許せないという理由で補助金交付を拒否したのです。

その頃の、オリンピックスポーツの位置付けがいかに確立されていなかったかということが思い知らされる一幕です。

一度は断ったオリンピック出場でしたが、嘉納治五郎の真摯な説得により、四三はオリンピック出場を決意しました。

そこで競技者にのしかかってきたのが渡航費の1800円(現在のお金に換算すると500万円)という金額でした。

四三は、父の亡き後、後ろ盾になってくれていた故郷熊本の兄、金栗実次に、苦渋の思いで渡航費の援助を求めます。
兄は、その日本人初のオリンピック出場ということを大いに喜び、田畑を売ってでも用立ててくれると約束してくれました。

当時、東京高等師範学校寄宿舎の舎監は、金栗四三と同郷の先輩、福田源蔵でした。
福田は、金栗四三のオリンピック出場という朗報と多額の渡航費が必要という事を知り、渡航費を捻出するための寄付活動を開始しました。
四三の日本の初オリンピック出場という快挙を大いに誇りに思った同郷の人々は積極的に寄付してくれ、1500円まで資金を集めることができました。

こうして金栗四三は、兄と、同郷の応援者達の尽力で、渡航費を捻出する事が出来たのです。

それからの四三は、熊本の故郷の人々の応援に報いるために、必死に練習を重ねました。
1912年5月16日、ストックホルムに向けて日本を出発するその日まで、走る練習だけでなく、様々な準備をしていきました。
初めての欧州ですから、礼服を新調したり、テーブルマナーを覚えたり、英語を習ったりと大忙しでした。

この時、四三に英語やテーブルマナーを手ほどきしたのは、大森安仁子という女性でした。
大森安仁子は、日本にバレーボール、バスケットボールを紹介した大森兵蔵の妻であり、本名はアニー・ロバーツ・シェプリーという名前のアメリカ人です。
大森兵像がアメリカのマサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクールに留学していた時に、アニーと出会い、結婚し、アニーを連れて帰国し、アニーは日本に帰化し安仁子となったのです。

大森兵蔵はアメリカでの国際YMCA留学の経験を活かして、運動に関する論文も発表していたため、外国の運動、スポーツ環境を知る第一人者として嘉納治五郎に認められ、共に、日本のオリンピック初出場を目指して尽力した人物です。

大森兵蔵は、日本に帰国後、肺結核をわずらい、体調は優れませんでしたが、嘉納治五郎に依頼され、ストックホルムオリンピックの日本選手団監督となりました。

2019年NHK大河ドラマでは、この大森安仁子の役を、シャーロット・ケイト・フォックスさんが演じます。
シャーロットさんは、2014年後期のNHK朝ドラ「マッサン」のヒロイン亀山エリーを演じておなじみです。
今回がNHK大河ドラマ初出演のようですが、この、西洋と日本との架け橋となる役を、熱演してくれることと思います。

また、オリンピック予選大会で足袋が破れてしまったというアクシデントに見舞われていた金栗四三は、オリンピックにおける足袋対策を講じていました。
近所の足袋店「「播磨屋足袋店」の主人・黒坂辛作(くろさかしんさく)に相談し、足袋の底を3重に重ねて厚くした特性マラソン足袋を作ってもらいました。

実は、オリンピック後、更に改良を重ねられたこのマラソン足袋は、金栗足袋とも言われ、日本陸上界に普及していきます。
そして1936年のベルリンオリンピックでは日本統治時代の朝鮮出身の孫基禎が金栗足袋を履いて金メダルを獲得するという快挙を成し遂げます。

これは、池井戸潤氏著作でもあり、2017年10月から12月にかけてTBSで放映されたドラマ「陸王」のモデルになった話です。

ストックホルムオリンピック

1912年5月16日、金栗四三、三島弥彦、大森兵蔵、大森安仁子の四人は新橋駅からストックホルムに向けて旅立ちます。
1912年といえば、明治から大正に変わる年。
まだ、その頃には、現在のように飛行機で、日本にとっては地球の裏側にあるヨーロッパに行ける筈もありませんでした。
新橋から神戸に向かい、神戸から船に乗ってウラジオストックへ。
そしてウラジオストックからはシベリア鉄道でスウェーデンを目指しました。

2018年の現在になっても、スウェーデンへの日本からの直行便はなく、コペンハーゲンやヘルシンキ、アムステルダム、ロンドン、パリ、フランクフルトなどを経由することになりますが、飛行時間は最大で19時間程度です。
経由地での待ち時間を入れると1日がかりの旅になるという、今でも遠い日本とスウェーデンですが、1912年当時はそれより遥かに遠い国でした。

全部で17日間という長い旅程を経て、金栗四三ら4人は、ストックホルムに到着しました。

1912年に開催された第5回ストックホルムオリンピックは5月5日に開会式を行い、閉会式の7月27日まで、28の国と地域から2490人の選手が参加し、二ヶ月以上開催されました。

2016年8月に開催された第31回リオデジャネイロオリンピックは206の国と地域から 11,000人の競技者の参加でしたから、まだまだその頃のオリンピックの規模はとても小さいものでした。

第5回ストックホルムオリンピックの競技場はストックホルム・スタディオン(Stockholms stadion)で行われました。
この競技場は、この1912年のストックホルムオリンピックのために建設され、現存する世界最古のオリンピック競技場でもあります。

NHK大河ドラマ「いだてん」でもストックホルムオリンピックの模様は、このスタディオンで収録されたそうですから、その美しい競技場を、動画で見ることが出来るのは楽しみです。
現在では、サッカーと陸上競技を主に開催する競技場となっており、また、多くの有名ミュージシャンのコンサートも開催されたりしています。
過去にはローリングストーンズもこの競技場でコンサートを開催しました。

初めてのオリンピック参加で、金栗四三と三島弥彦の二人の競技者を苦しめたものは多くありました。

まず、最初に入場行進に掲げる日本の国名入りのプラカードの表記に、金栗四三が強い主張をします。
「日本」という漢字でいいじゃないかと主張したのです。
ですが、漢字表記しても誰も読めないじゃないかと、後から駆けつけた嘉納治五郎と選手団監督の大森兵蔵が反対します。
Japanというイギリス人が勝手につけた名前に、金栗四三はよほど納得が行かなかったようです。
頑として、JAPANという表記をはねつけていた四三に、嘉納治五郎の出した折衷案は、「NIPPON」でした。
流石の四三も、この折衷案に折れて、日本の最初のオリンピック参加の入場行進は「NIPPON」と表記されたプラカードを掲げての行進となりました。
(NIPPONのプラカードを使ったオリンピックは、ストックホルム大会のみで第7回アントワープ大会以降はJAPANの表記となっています。第6回ベルリン大会は第一次世界大戦のため中止となったため。)

また、選手である金栗四三と三島弥彦を苦しめたものが、ストックホルムにはありました。
17日間にも及ぶ長旅の疲れ、日本人の主食である米が食べられない現地での食事、そしてスウェーデンは北欧、オリンピック開催時は夏で白夜のシーズンですから、体内時計が狂ってしまったのです。
北欧では6月から7月にかけてが白夜にあたります。
年によって時期は少しずつ変わりますが、白夜の時には、日没は22時頃、日の出は朝の4時半ごろと、暗くなる時間が圧倒的に、日本に比べて少なくなります。
また夜とされている時間でも薄明るくなっている場合もあるので、それに身体を慣らして競技に備えるには、かなりの無理があったようです。

特に短距離走の代表として参加した三島弥彦は、外国人たちとの体格の違いに圧倒され、そしてこの白夜にも悩まされノイローゼ気味にまでなってしまいました。
それでも、なんとか体調を回復させ、100メートル競技では予選5位で敗退となりましたが、自己ベストを更新する11秒8というタイムを出しました。
その後、三島弥彦は200メートルも敗退し、400メートルは決勝に進むことは出来ましたが、実力の違いをまざまざと感じ、決勝出場を辞退しました。

金栗四三は身長170cmでしたから、当時の日本人としては背も高く体格も良い方でしたが、やはり欧米人とは圧倒的に体格差がありました。
日本選手団監督、大森兵蔵は、体格の違いからも、短距離走では、日本人選手に勝ち目はないと判断し、金栗四三には、出場を予定していた1000メートル競技をやめ、マラソン競技一つに絞るように勧めるのです。

マラソン競技当日 「消えた日本人」

1912年7月14日、マラソン競技の当日は、ギラギラとした真夏の太陽の照りつける天気でした。
そして、出迎えに来る予定だった車が来なく、金栗四三はマラソン競技スタート地点まで走って行かなくてはいけませんでした。
マラソン競技スタート前に、競技場まで走らなくてはいけなかったのです・・・。

当日は炎天下で気温も40度を超える猛暑でした。

2020年に開催される東京オリンピックでも、夏の酷暑が心配され、スタート時間を早める事とはじめとする多くの対策が考案されていますが、ヨーロッパの酷暑もひどい時には、想像を絶するような温度になります。

過酷な暑さの中、13時半、参加者68名でマラソン競技は始まりました。
国際試合の経験もなかった金栗四三は、スタート当初の欧米人選手たちのハイペースに巻き込まれ、自分のペースを崩してしまいます。
そして厳しい炎天下の中でのレース中盤、26kmを過ぎたあたりで、四三の体調に異変が起こります。
力が抜け、目もくらみ、ふらふらになってしまいました。

白夜による寝不足、慣れない海外での食生活、そして猛暑のため熱中症になってしまったのです。
意識朦朧とした四三は、沿道にあった地元の農家であるペトレ家に迷い込み、そこで倒れてしまいます。

猛暑の中、ストックホルムオリンピックのマラソン競技では、68名の参加者の中、実に半数の34名が棄権しました。
フランシスコ・ラザロというポルトガル代表の選手は、ゴールまであと8キロの時点で倒れて意識を失い、翌日に死亡するという事態まで起きたほどの過酷なレースでした。

四三が迷い込んだペトレ家には、他に何人もの選手が休みに来たそうです。
ペトレ家では四三を介抱するだけでなく、他の選手たちの対応も必死に行ったそうで、のちに、その功績を認められメダルを受け取ることになりました。

バタバタと多くの選手たちが棄権したり、病院に搬送された選手も多いレースの最後の走者がスタジアムでゴールしても金栗四三の姿はどこにもありませんでした。

棄権した選手のリストにも、病院に搬送された選手の中にも四三の名前はありませんでした。
棄権もせず、ゴールもしていない金栗四三は、「消えた日本人」という事で、その後語り草になっていったのでした。

途中でお茶会に誘われてレースを中断したとか、美女に誘われ消えてしまったとかなど、様々な都市伝説が生まれ、”Missing Japaneseー消えた日本人”として、金栗四三の名前は、本人の敗退の悔しさとは裏腹に、地元ストックホルムでは有名になったのです。

このマラソンの当日、熱中症になって倒れこんできた金栗四三を介抱してくれたペトレ家と、日本の金栗の親族とは世代を超えて代々交流が続いているそうです。

ストックホルムオリンピックで介抱してもらってから55年後に金栗四三自身がペトレ家を訪問していますし、手紙などのやりとりが続いています。
2012年には金栗四三のひ孫がストックホルムを訪問したり、2013年には現在のペトレ家の人々が日本に訪れて、金栗四三の御墓参りをしたそうです。

また現在のペトレ家の方々も、NHK大河ドラマ「いだてん」のマラソン競技のシーンで出演しています。

こうして、金栗四三、21歳の時の初めてのオリンピックは棄権もゴールもないまま終了したのです。

日本の長距離走の礎を築く

自らにとっても、日本にとっても初めてのオリンピックにおけるマラソン競技代表という名誉を掲げて挑みながらも、ゴールすることすらできなかった金栗四三は、日本に帰国後、次回予定されていた第6回ベルリンオリンピックに向けて闘志を燃やします。

ベルリン大会開催時には、25歳になる四三は、まさに競技者として脂の乗った年齢となるわけですから、ストックホルムオリンピックで得た悔しい経験の元に厳しいトレーニングを開始しました。

ベルリンオリンピックで雪辱を果たすために練習に励む金栗四三に、兄、実次から熊本の実家に一時帰るようにと手紙が届きます。
熊本県玉名郡の資産家で、四三の叔母である幾江が嫁いだ地元の池部家に養子に入るようにという話でした。

池部幾江は夫に先立たれ、子供もいなかったので池部家存続のために、金栗家の四男である四三を養子に望んだのです。
東京で競技者生活を続けるつもりだった四三は、養子に入っても東京にいることが出来るということを条件に養子縁組に応諾しました。

そして、結婚した方がなおのこと安泰ということで、四三の見合い相手として春野スヤという四三より一つ年下の医者の娘との結婚を強引に進めます。

1914年(大正2年)、東京高等師範学校を卒業したばかりの金栗四三は、地元熊本に一時的に戻り、春野スヤと結婚前提のお見合いという事で初めて会い、そしてその見合いの翌日に祝言をあげたのです。

この辺りの経緯はドラマでは少々実話と異なるようです。
春野スヤ役には、自身が主演した大河ドラマ「八重の桜」以来の出演となる綾瀬はるかさんです。

池部家の養子に正式に入ったのは、1923年(大正11年)のことでしたが、養子となった後も、四三は通称名として金栗四三を名乗り続けました。

新婚となった四三でしたが、新妻のスヤを熊本に残し、東京に戻ります。
結婚するやいなや、東京と熊本の別居生活がしばらく続くのです。
東京高等師範学校を卒業しましたが、教師の道には進まず、ベルリンオリンピックを目指すため高師研究科(今でいう大学院)に進みます。

ストックホルムでの反省に基づき、猛暑の対応、米のない食生活、硬い舗装道路での走りなど研究に研究を重ねたトレーニングは続きます。
また師範学校の先輩たちが赴任している全国各地の学校を訪問し、マラソンの指導も行なっていきます。

金栗四三は、養子先の池部家が資産家であったため、結婚した後も生活のために就職をする必要はありませんでした。
また、マラソン指導のための移動経費なども、池部幾江からの仕送りで対応していったそうです。

やがてベルリンオリンピックを目指した生活を続けていた金栗四三に、時代の波が襲ってきます。
1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦は、1916年(大正5年)になっても収まらず、ベルリンオリンピックは中止となってしまいます。

実は、ストックホルムオリンピック後、帰国してからの金栗四三は、非公式ながら自身の1911年ストックホルムオリンピック予選で出した25マイル走世界記録を二度更新しています。
1913年第1回陸上競技選手権大会(2時間31分28秒)と1914年第2回陸上競技選手権大会(2時間19分30秒)です。
つまり、通算3度もマラソン世界記録を樹立したのです。

そして1916年、金栗四三は鎌倉にある神奈川師範学校の教師となり、教鞭を取りながら、マラソンの練習そして指導に励みます。
当時徴兵検査を受けた四三でしたが、オリンピック参加という功績のため、すぐには軍に入らなくても良いと、軍が判断をしたため、兵役につくことはありませんでした。

一年ほど神奈川師範学校で勤めた後、四三は東京の独逸協会中学(現在の獨協学園)に赴任します。
その後5年ほど独逸協会中学で教師を続ける傍ら、四三は自身のトレーニングはもとより、日本における長距離走の普及と強化に努めていきます。

1917年4月27日には日本最初の駅伝、京都と東京を結ぶ514キロを昼夜通して行われた「東海道五十三次関東関西対抗駅伝競争」で、金栗四三は関東組の最終ランナーを努めます。

また、現在では、世界でも日本でもマラソントレーニングとしては一般的になっているのが高地トレーニングですが、日本でこの高地トレーニングの元祖となったのが、1913年に金栗四三が発起人となって始めた富士登山競走と言われています。
御殿場口五合目太郎坊から富士頂上まで個人で競うもので下が、1925年には御殿場駅前と富士山頂を往復する富士登山往復駅伝が開始されました。
第二次世界大戦時と1955年から1975年までの二回中断されましたが、その後継続しているのが、日本で最も過酷と言われている富士登山駅伝です。

そして何と言っても、1920年の2月14日と15日に開催された記念すべき第1回東京箱根間往復大学駅伝競走です。
1919年(大正8年)10月に、金栗四三と、東京高等師範学校教授で棒高跳び選手だった野口源三郎、そしてマラソン選手だった明治大学の沢田英一の3人の中で、サンフランシスコからニューヨークまで、アメリカをリレーして縦断するという計画が持ち上がりました。

この話を報知新聞社に持ち込むと協賛を得ることができ、第1回箱根駅伝は、アメリカ縦断駅伝の選考会として開かれることになったのでした。

そのアメリカ縦断駅伝を実施するための選考会として、名乗りを挙げた東京高等師範学校、早稲田大学、慶応大学、明治大学の4つの大学で行われました。

東京と結ぶエリアとして、日光、水戸、箱根が上がりましたが、険しい山越えのある箱根が選ばれ、箱根駅伝が誕生したのです。

第1回の箱根駅伝は、1920年2月14日が土曜だったこともあり、午前の授業を受けてからということで、東京有楽町報知新聞社前を午後1時にスタートしました。
往路1位は明治大学、2位は東京高等師範学校、3位は早稲田大学、4位は慶応義塾大学という結果でした、
1位の明治大学が20時半、4位の慶応大学がゴールしたのが20時53分という時間だったので、後半は松明を灯しながら走り、ゴールした時には花火を鳴らしたという逸話があります。

往路は2月15日午前7時にスタートします。
往路も順調に明治大学が1位を守っていましたが、最終10区で東京高等師範が見事な逆転劇を展開し、第1回箱根駅伝の総合優勝は、金栗四三の母校、東京高等師範学校となりました。

箱根駅伝の当初の目的は、アメリカ縦断駅伝の予選会ということでしたが、残念ながら、このアメリカ駅伝は実現することはありませんでした。
しかしながら、現在でも長い伝統を誇る、1月2日、3日の風物詩でもある箱根駅伝は、こうして誕生したのです。

今でも、箱根駅伝において最も活躍した選手に与えられる最優秀選手賞には金栗四三杯が授与されます。
これは、金栗四三が1911年にストックホルムオリンピック予選会にマラソン競技で優勝した時の優勝杯の複製です。

日本で最初のマラソンを走り、日本人として初めてオリンピックに出場し、そしてマラソン競技の普及に努めた金栗四三。
その名前のついたトロフィー、金栗四三杯が今でも受け継がれている箱根駅伝のMVPに与えられる栄誉あるものなのです。

二度の五輪出場 そして女子スポーツ振興へ

第1回の箱根駅伝開催の直後である1920年(大正9年)4月、ベルギーで第7回オリンピックアントワープ大会が開催されました。

金栗四三は、29歳になっていましたが、代表に選出され、2回目のオリンピックに参加しました。
1912年のストックホルムではたった二人だった参加者もアントワープ大会には15人に増えました。
選手の体調管理や、宿舎の整備など、金栗四三が初めてのストックホルムでの経験したことが、大きく活かされたオリンピック参加となりました。

第7回アントワープオリンピックは1920年4月20日から9月12日と長期間に渡る大会でした。
大会中に30歳となった金栗四三は、8月22日、マラソン競技に挑みます。



アントワープ大会マラソン競技の当日は、前回のストックホルムの酷暑とはうって変わって、ひどく寒い天候でした。
金栗四三は、30キロ時点で、順位を5位まで上げたのですが、途中で脚を痛め、冷たい雨の中脚を引きずりゴールしました。
結果は16位、2時間48分45秒という成績でした。

日本選手団は、男子テニスの熊谷一弥(くまがいいちや)がシングルスで銀メダルを獲得し、同じくと熊谷一弥と柏尾誠一郎のペアは、ダブルスで銀メダルを獲得し、大きな第一歩を踏み出しました。

ちなみに熊谷一弥は日本のテニス界の黎明期を切り拓いた選手であり、1918年(大正7年)の全米選手権で、日本人選手として初めてグランドスラムベスト4に進出しました。

アントワープオリンピックを経験した金栗四三は、女子参加のスポーツの盛んなヨーロッパの光景に感銘を受け、女子にもスポーツ教育が必要だと強く実感します。
帰国後、女子スポーツ教育案を検討していた金栗四三に、嘉納治五郎は東京女子師範学校(のちのお茶の水女子大学)で教えることを勧めてきました。

1921年(大正10年)、東京女子師範学校に地理の教師として赴任した金栗四三は、女子スポーツとしてテニスを広めようとしました。
初めての女子テニス大会・女子連合競技大会を開催し、1923年(大正12年)には関東女子体育連盟を設立し、女子スポーツ教育振興に力を注いでいくのです。

こうして金栗四三は、東京女子師範学校を1930年(昭和5年)に退任するまで、日本における女子スポーツ教育を確立するために尽力していったのです。

1924年(大正13年)、フランスで開催された第8回パリオリンピックに金栗四三は参加します。
既に33歳となり、選手としてのピークを過ぎていた四三でしたが、3度目の出場権利を獲得したのです。

パリオリンピックのマラソン競技の当日は、ストックホルムオリンピックを彷彿させるような猛暑の天候でした。
前半は積極的なレースを展開した金栗四三でしたが、32,33キロ時点あたりで意識が朦朧として意識不明となり、リタイアすることになってしまいます。

この大会をもって、金栗四三は競技者としての現役を退きました。
初めてのマラソン競技で、世界記録を樹立するという才能をもった金栗四三でしたが、三度のオリンピック本大会では残念ながら、その実力を出し切ることはできませんでした。

その後、1930年(昭和5年)、金栗四三は、東京女子師範学校を退任することとなります。
スポーツ振興に反対する当時の校長との対立の結果、自身で退くことを選択したのです。

既に四人の子供もいた四三は、東京女子師範学校を退任後、東京を引き払い、故郷熊本に戻りました。
そして熊本でスポーツの楽しさを教えながら暮らしていきました。

金栗足袋の活躍と消えた東京オリンピック

パリ五輪の後、競技者としての現役を退いた栗四三でしたが、本人不在の中でもその存在は、金栗足袋として日本のマラソン競技発展に貢献していきます。

1928年(昭和3年)に開催された第9回アムステルダムオリンピックでは日本人選手の山田兼松が4位、津田清一郎が6位入賞を果たします。
この時、山田兼松、津田清一郎の二人が履いていたのが金栗足袋だったのです。

1936年(昭和11年)、ドイツで開催された第11回ベルリンオリンピックでは日本統治時代の朝鮮出身の孫基禎が金栗足袋を履いて金メダルを獲得します。
同大会で銅メダルを獲得した朝鮮出身の南昇龍も金栗足袋を履いていました。

1912年、金栗四三が出場したストックホルムオリンピックから24年経ち、金栗足袋は大きな発展をし、功績をおさめていったのでした。

一方で、1931年(昭和6年)、東京へオリンピック召致を表明した日本は、1936年(昭和11年)の開催地決定投票で、ヘルシンキを破り、1940年(昭和15年)第12回オリンピックを東京で開催する権利を勝ち取ります。

東京オリンピック開催のため、JOC初代会長でありIOC委員出会った嘉納治五郎は金栗四三を東京に呼び戻します。
東京に戻ってきた金栗四三は、選手の育成や、会場の構想など1940年東京オリンピック開催の為に奔走し尽力したのでした。

ちなみにこの当時、1935年に大阪の道頓堀川沿いに設置されたランナーの看板、初代グリコネオンは有名なマラソンランナー数名を参考にデザインされたものですが、その中のモデルの一人は金栗四三でした。

嘉納治五郎や金栗四三が東京オリンピック開催に向けて奮闘する中、1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争により、日本政府は、オリンピック開催に関しての賛成派と反対派に分かれて大いにもめていました。

そんな状況でしたが、1938年(昭和13年)エジプトのカイロで開催されたIOC総会で、嘉納治五郎は様々な批判を浴びながらも東京オリンピック開催の確認に成功します。
が、そのIOC総会からの帰国途上の1938年5月4日、横浜到着予定2日前、氷川丸において嘉納治五郎は肺炎で死去してしまうのです。

嘉納治五郎の死により、オリンピック開催賛成派は勢いをなくし、日本政府はオリンピック開催の中止を決定し、1940年第12回オリンピックの開催地はヘルシンキとなってしまいました。

東京オリンピック開催の夢が消え、また恩師嘉納治五郎を失った悲しみに打たれながら、失意のまま金栗四三は故郷熊本に戻ったのでした。

結果的に、1939年に第二次世界大戦が勃発したため、予定されていた1940年第12回ヘルシンキオリンピックと1944年第13回ロンドンオリンピックは中止となります。

太平洋戦争が1945年に集結し、1948年(昭和23年)第14回ロンドンオリンピックから五輪は復活しますが、敗戦国であった日本は参加が許されず、日本のマラソン界は、国際舞台から大きく遅れを取ることになりました。

日本国内では、1946年(昭和21年)10月20日に第一回全日本毎日マラソン大会(現びわ湖毎日マラソン大会)の開催を皮切りに、日本の長距離陸上も復活を始めました。

金栗四三も五輪やボストンマラソンのような国際大会に出場するような選手の育成に尽力します。

1951年(昭和26年)、日本はボストンマラソンに初参加します。
その代表選手だった田中茂樹は、2時間27分45秒という記録で優勝します。
日本初のボストンマラソン参加で、初の日本人優勝者となった田中茂樹は、金栗足袋を履いていました。
足袋を見慣れないアメリカ人記者達にはは、指が2本しかないのかと奇異に映ったらしく大騒ぎになったのですが、足袋を脱いだら、なんだちゃんと五本指があるじゃないかとホッとされたというエピソードもありました。

こうして第二次世界大戦を挟んで、日本マラソン界が激動に晒される中、金栗四三の存在は金栗足袋によって受け継がれていったのでした。

54年8ヵ月目のゴール

その後も、日本長距離陸上の発展に尽力していった金栗四三は、その功績を認められ1955年(昭和30年)スポーツマンとしては初の紫綬褒章を受賞します。

そして1967年(昭和42年)、1912年の第5回ストックホルムオリンピックから55年が経ち、55周年を記念する国際親善の式典が開催される事になり、金栗四三はその式典に招待されました。

この式典開催の為に、オリンピックの記録を整理していたスウェーデンオリンピック委員会が、金栗四三の記録が無いことに気づいたのです。
棄権届けも出していなかった為、記録を完成させる為に、記念式典側が金栗四三を式典に招待したのです。

1967年3月21日、55年前にオリンピックが開催されたストックホルム・スタディオンをゆっくりと走った金栗四三はゴールテープを切ります。

そして場内アナウンスが流れます。

日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します。

この後、金栗四三はスピーチで「長い道のりでした。この間に結婚し、子供が6人できて孫も10人できました。」と話したそうです。

54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3という記録は、当然ですがオリンピックマラソン史上、最も遅い記録であり、今後も破られることはないと言われています。

このストックホルム訪問の際に、金栗四三は、ストックホルムオリンピックの時に熱中症で迷い込み、親切に介抱してくれたペトレ家を訪れました。

こうして長い年月を経て、ストックホルムオリンピックでの金栗四三の記録は完結し、その名は、ストックホルムの人たちにより広まっていったのです。

現在、ストックホルムを訪れて、金栗四三のことを訊ねると、非常に多くの人がその存在を知っているそうです。
スウェーデンで今まで開催されたオリンピックは1912年第5回ストックホルム大会の一回のみです。
そのスウェーデンの誇りでもあるストックホルムオリンピックに、語り継がれるMissing Japaneseとして54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3というマラソン記録を残した金栗四三は、今でもその存在がストックホルムの人たちに歓迎されているのです。

晩年は、故郷にある小学校でマラソンを教えて過ごしていた金栗四三は、1983年(昭和58年)11月13日に肺炎で息を引き取ります。
享年92歳の大往生でした。
死後、皇室から金栗四三に対して従五位銀杯(じゅごいぎんぱい)が授与されました。
公共に対して功労のあった者が死亡した場合に、その生前最後の日に遡って授与される叙位でした。

日本の長距離陸上の黎明期を自ら切り拓き、オリンピックに初参加し、数々の困難に立ち向かいながらも競技者として、そして指導者として日本の長距離陸上の発展に貢献してきた金栗四三。

日本のマラソンが世界に通用するレベルになったのも、金栗四三の功績無くしてはあり得なかったことでしょう。



2020年、2回目となる東京オリンピックが開催されます。
それに先立ち、2019年NHK大河ドラマ「いだてん」では、1964年に開催された東京オリンピック実現に至るまでの長い道のりを描きます。

また、金栗四三の故郷である熊本県玉名郡和水町(たまなぐんなごいまち)では、金栗四三を等身大で紹介し、日本のマラソン界に捧げた生涯を体験できる「金栗四三ミュージアム」が2019年1月11日から2020年1月13日まで開館します。

2019年1月6日から放映開始となる「いだてん」では、この金栗四三の長距離陸上にかけた人生を充分に楽しむことが出来ることと思います。
大河ドラマを通して、熊本で走り回っていた少年が、日本マラソンの父となるまでの道のりを堪能したいと思います。

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